馬橋稲荷神社

歴史と地名

馬橋村と馬橋稲荷 2

鎮座地
東京都杉並区阿佐谷南2-4-4

馬橋村の小名(字)

馬橋村は延宝2年(1674)4月の縄打帳によると田方14ヶ所の小名、新道上、前田、宮ノ前、宮ノ前道上、細町、とうの下、道下、向田、新道下、志も田、水神前、そば窪(蕎麦窪)、赤み街道、中堤上等の水田があり、これによって湧水による水田分布の範囲がわかります。

また畑方35ヶ所の小名は次の通り、高円寺境、前、屋敷添、大場境、屋敷裏、せど、天神前、第六天山、後、阿佐ケ谷境、後原、宮ノ後、宮ノわき、前畑、屋敷内、本屋敷、稲荷前、田端、南、赤味ケ谷戸、中通り、宮ノ前、西ノ窪、蕎麦窪、新道下、赤宮ミかいと、道通り、大道通り、田むかい、池ぶち、海道通り、海道むかい、大塚根、そば窪、大宮境。

萓野方小名は次の6ヶ所、後原、大場さかい、後、ミやのこし、にしのくに、中道。

主なのに本屋舗、後原、後見ケ谷、田向、西ノ久保、中道、蕎麦窪、大塚根などの小名がありました。

「本屋舗」
村が成立した当時に最有力者が住んでいた地域。
「後原」
本屋舗の背後(北)の原。
「後見ケ谷戸」
本屋舗の後ろに見えた小さな谷。
「田向」
桃園川の向かい側(南)の田圃。
「西ノ久保」
村の中心から見て西方の窪地。
「中道」
村の中程を通っている古道沿いの地域。
「蕎麦窪」
青梅街道の蕎麦(傍)の窪地。
「大塚根」
梅里2丁目31番にあった「松の木の大塚」の麓(方言・根元)であった。

明治22年町村制が施行されて、高円寺・馬橋・阿佐ケ谷・天沼・田端・成宗の6ヶ所は合併して、杉並村となり、杉並村大字馬橋となった。

杉並村の成立に伴い旧村の小字は廃止され、大字馬橋には住還南、本村、鷹っ鶴、西原、内手、原の6つの小字がつけられた。

「住還南」
青梅街道南側の地域。江戸時代は青梅住還と呼んだ。
「本村」
「鷹っ鶴」
将軍家光が鷹狩りにきて、放した鷹が鶴を捕らえたので鷹鶴と名付けられたとの説がある。
「西原」 「内手」
旧小名西ノ久保の地域。地元の古老の話では、田畑、山林には、西ノ久保を使い人や家には内手をつかった。大昔からあった地名ですが意味は分からない。内手は昔、砦の内の手勢という意味ですから、この近くの豪族(阿佐ケ谷氏)の「家の子郎党」の住居のあったところかもしれない。
「原」

小字はどこの村でも共通性があり、その土地がどの様な所であったか手がかりとなります。

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