馬橋稲荷神社

歴史と地名

馬橋村と馬橋稲荷 5

鎮座地
東京都杉並区阿佐谷南2-4-4

天保新堀用水路

馬橋、高円寺村のほぼ中央を西から東へ流れていた桃園川の水源は、天沼弁天池と流域の湧き水でした。

天沼、井草、阿佐ケ谷村の山林が開墾されるにつれて湧水量が少なくなり、下流各村の水田は雨が降らなければ田植えが出来ないいわゆる雨水場でした。

宝永4年(1707)に、山王日枝神社領の天沼、阿佐ケ谷村は、千川上水から分水を許されましたが、高円寺、馬橋、中野の三ケ村は、その恩恵が与えられず、毎年田圃の用水に苦労しました。

天保4年(1833)から同10年まで、4ヶ月間日照りの凶作が続いたので、三か村の名主、田持ち総代が協議して、水量の多い善福寺川から桃園川へ引き水する”新掘用水路建設計画”を立て、天保11(1840)2月に幕府から金270両の助成金をうけて、馬橋村の名主・大谷助次郎が工事を請け負い、馬橋村水盛大工銀藏(川島氏)の設計監督で、工事を再開し、工事金287両余、人足延べ2145人をつかって、同年10月に田端村の広場堰(現荻窪団地第2駐車場)→田端神社裏側→善福寺川上公園北側→成宗弁天池→区役所東側→長生湯南側→石橋湧水路への延長1260間(2270メートル)の用水路が完成しました。

ところが、広場堰から善福寺川上公園までの用水路の土手はカワウソの巣で漏水が多いうえ、10月末の大雨で水路が崩壊してしまいました。

これを補修するには建設する以上の金がかかること、将来もたびたび崩壊するおそれがあるので、新しく広場堰から直接成宗弁天池へ流す直線の水路を掘鑿(くっさく)することになり、翌12月正月、幕府より拝借金150両をうけて、延長307間(560メートル)、内、トンネル220メートルという大工事を完成させ、見事に善福寺川の水は桃園川に流れ落ちました。

お陰で馬橋、高円寺、中野の三か村合計22町7反歩余りの水田は干ばつの心配がなくなり、大正時代までその恩恵を受けました。

成田東5-29 成宗弁天社境内に以下のように刻した新掘用水記念碑があり、また、水路の一部に石橋の跡が残っています。

武蔵多摩郡中野村高円寺村
三村里正(名主の意)

馬橋村之地平原乏水 屡(しばしば)羅凶
堀江卯右衛門

早三村之民相上謀開新渠
大谷徳左衛門

引池水以灌漑時懸令中村氏
村田仁三郎

給費天保拾二辛丑正月工竣
大谷助次郎

明治十三年三月建之
水盛大工 川島銀藏

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