杉並区馬橋の歴史


馬橋の歴史と地名 大正から昭和へ

戦災と復興

 昭和18年、大東亜戦争が激しくなり、空襲が必至となったため、高円寺南1丁目の青梅街道の北側は20メートル幅、野方道(環七通 り)は40メートル幅、中央線の両側は15メートル幅、駅の周辺は30メートル幅、桃園川の両岸は10メートル幅の地域が防火空地帯に指定され、地域内の建物は全部20年1月までに、強制的に取り壊されました。


 5月23日の空襲では阿佐ケ谷南1丁目(旧馬橋地区)の杉並第六小学校を中心に、焼夷弾が落ち、同校は全焼しましたが、その際馬橋稲荷神社に火の手が近付いたとき、鎮守の杜を燃やしてはいけないと神社の板塀に住民皆で水をかけ類焼を防ぎました。その為神社の森を境に西側は焼け残りました。


 馬橋稲荷神社では昭和25年3月日清、日露、大東亜の戦没で戦死した、氏子中の戦没者の御魂と、神社関係物故者の合わせて500余柱の御霊を祀る斎霊殿を新設しました。春秋には慰霊祭が斉行されています。