杉並区馬橋の歴史


馬橋の歴史と地名 大正から昭和へ

住居表示改定

 昭和37年5月に「市街地のすべての建物に番号をつけて、分かりやすくする」という目的で、住居表示法が公布され、従来の町名番地は、河川、道路、鉄道などを境界にした新しい町名、番号に改定されました。そのため、昔から呼び慣れた地名の多くは消え去り、残っても地域が変わったりなどして、将来、郷土史の研究に大きな誤解と非常な困難が生ずることでしょう。

 旧馬橋地区は、地主を中心とした馬橋の名に親しんだ住民の反対はあったものの、「馬橋の地名は田舎臭いし、知名度も低いから、知名度の高い高円寺か、阿佐ケ谷の地名に変えて欲しい」との住民の要望も多かったため、中央線の北側地域は高円寺北に、中央線の南側地域のうち、馬橋中央通 りより東部は高円寺南に、西部は阿佐谷南に改称しました。

 青梅街道南側の旧高円寺3丁目と馬橋1丁目の住居表示協議会で、区の住居表示課より「高円寺3丁目は堀之内、馬橋1丁目は成田に含める」という案が提示されましたが、住民から「堀之内は、堀之内火葬場が連想されるから駄 目だ。成田は成田山(不動様)と間違われる」と、強い反対論が出て、なかなか町名が決まらなかったとき、馬橋1丁目自治会の会長三村敏子氏が、「この町は青梅街道に面 しているから、青梅の梅と町を意味する里を組み合わせて梅里にしては」と提案された。協議の結果 、梅里は美しい名前であるし、語呂もよいので、満場一致で承認された梅里の町名が生まれました。

 これによって、400年以上の歴史を持った馬橋の地名は消え失せ、僅かに馬橋会議室、杉並消防署馬橋出張所、馬橋小学校に、その名を留めるのみとなりました。馬橋の鎮守である馬橋稲荷神社(それまで稲荷神社)では名前の消え去るのを惜しみ、正式に馬橋稲荷神社と号することになりました。同時に神奈川県真鶴産の本小松石(6トン)地上3メートルの自然石に社名を刻んだ社号碑を参道入り口に建立しました。